黒人霊歌集
洗練されたとても美しい発声ですので、『黒人霊歌集』特有の「魂の叫び」が伝わってくるかな、と思いながら聴きましたが、心の奥底に秘められた「哀しみ」がその真摯な歌声から伝わってきました。
バーバラ・ヘンドリックス自身のコメントにもありましたが、幼い頃から、教会を中心とした生活を送り、礼拝中に歌われる「黒人霊歌」との出会いはとても感動的だったと述べています。彼女の血に流れる「ルーツ」がこのような「哀しみの中から生まれる希望」を表現させているのだと感じました。
元々は1983年に発売されたものと1998年に発売された2枚のCDを1つのセット(2枚組)として発売された物ですから、「ジェリコの戦い」などは2つのヴァージョンを聴くことができます。
2枚目のCDは、ザ・モーゼス・ホーガン・シンガーズの合唱と一緒に歌っています。その分厚いハーモニーがまた「黒人霊歌」の醍醐味ですね。特に応答関係を持つ合唱曲にその魅力を感じました。
バーバラ・ヘンドリックスも、バック・コーラスがこれだけ素晴らしいと一層映えますね。
「時には母のない子のように」「誰もわたしの悩みを知らない」「深い川」「しずかに揺れよ、懐かしのチャリオット」「ギレアデには乳香が」「そっと行こう」「主はダニエルを連れ出されたのではなかったの」「けっして、ぶつぶつおっしゃらなかった」「いい知らせじゃないか?」という有名な曲が沢山収録されていますので、『黒人霊歌集』の好きな方にはたまりません。
特に「おまえはそこにいたか?(Were You There?)」の心の底から絞り出るような歌声は、これを聴く者をその敬虔な世界へと必ず導いてくれることでしょう。バーバラ・ヘンドリックスによって歌われる音楽はとても静かですが、このソプラノからは熱い思いが如実に伝わってきます。これこそが「黒人霊歌」なのです。
アルフレッド・リードの世界
昔、アルフレッド・リードの曲を演奏したことがあるのですが、ここに収録されている10曲は、彼の1982年から1989年にかけて作曲されたもので、それらを集めたアルバムとなっていました。
吹奏楽の世界では、A.リードは神様のような人で彼がいなかったらウィンド・オーケストラのレパートリーは相当貧弱になったと思います。
演奏は日本を代表する東京佼成ウィンド・オーケストラですから、アマチュアの演奏者にとってはお手本となるでしょう。まして、1曲目の「ヴィヴァ・ムシカ!」は、御大フレデリック・フェネルの指揮ですから、素晴らしい組み合わせだと思いました。
「第3組曲(バレーの情景)」の「パ・ドゥ・ドゥ」「風変りなポルカ」のような愛らしい曲を聴きますと、演奏者の喜ぶ顔が目に浮かびます。メロディ・メイカーのA.リードの特徴がよく出ています。
「エルサレム賛歌」は素晴らしい曲ですね。骨太の構成で、アンサンブルの精度が試される曲でもありましょう。木管の音色の温かみと金管のリズムの歯切れよさがこの曲のモティーフでしょうか。パーカッションも含めて、テッティの響きの荘厳さに、A.リードの特徴が出ていると思います。これからも末永く演奏される曲だと思います。
キング・オブ・カリビアン・グルーヴ~ハリー・ベラフォンテ・カリプソ・ベスト
渋い!楽しい!!これはいいです!!!
演奏にパワーがあって、遊び心があって、もうこれを買って損した人がいるなら、何が駄目なのか教えて下さい!!
生きながら火に焼かれて (ヴィレッジブックス)
男尊女卑。日本にとっては明治の言葉でないでしょうか。もちろん日本でも、今でも女性は差別されていると感じます。でも場合によってはその差別を逆手にとって優位にたつ事も可能です。でも彼女の国では女性は子供しかも男子を産む道具でしかありません。女性の人権、または命は男性、または家族が握っており、たわいもないうわさが立つだけでも命の危険があるなんて。しかも彼女の相手はその土地に住み、そういう行為に至れば彼女がどうなるか分かっていたはずなのに、彼女にその行為を求め、結果彼女だけに責任を押し付けてしまう。また彼女の家族も、家族の名誉のためだけに彼女の命を奪おうとする。これが現実にあったことだとは、私の脳がどうしても認めたがりません。しかもそういう女性の命を奪った男性には名誉が与えられる。犯罪ではなく。男性は優位にたつために女性を虐げる。自分の価値を高めるために自分より低い身分のものを作り出す。これは子供のいじめと一緒です。日本にも色んな差別や偏見はありますが、女性にとって男性が自分の命も脅かす存在である事はまれだと思います。彼女が生き延びたのには理由があると思います。彼女が幼少時代住んでいた村の風習を見直すときだと神様が言っているのだと思います。どうぞ、これから先、無意味な死が私の知らない国でも減りつづけ、最後にはなくなりますように。彼女の告白がその役目を果たしてくれますように。今の私にはそう祈るしかできませんが、私はそう願っています。
こうして世界は誤解する――ジャーナリズムの現場で私が考えたこと
私達がメディアから得る情報は、あくまで事実の一側面のみを(しかも都合良く)切り出したものであることを痛感させられる。
それが単なるTV番組ではなく、BBCやCNN、ニューヨークタイムズといった多くの人が情報ソースとして見ている(信頼を置いている)ニュースの話だというから驚きである。
勿論、TVに限らず一度でも新聞や雑誌の取材を受けたことがある人であれば分かっていることだが、メディアは取材を受けた人が言ったことをそのまま流すのではなく、都合の良い部分を一部だけ抜き出したり、勝手な解釈により表現を変えて流すことは良く知られたことである。
しかし、この書籍に出てくる勇気ある元ジャーナリストが描く実態は、そんなレベルの話ではない。
私達は、実は世界のことをあまりにも知らないことを、あるいは歪曲されたニュースによって知っている気にさせられていることを、認識させられる。
これにより、実際には我々が普段何気なく見ているニュースで語られる内容よりも、寧ろ語られなかった内容の方が重要であるということすら感じさせられる。
他には、訳者あとがきからの記載によって、これらは海外ニュースのみではなく、日本においても同様のことが起きていることを匂わせる記載がある。3.11後の反原発報道を抑えるために行った東電のメディア向け接待攻勢が常軌を逸したものだったとのこと。
これらの情報から私が思い起こしたのは、日本では、国策であるたばこ販売を守るため、たばこへの否定的なイメージは流すことができず、肺ガンに関するドキュメンタリー映像は過去一度もTV放映されたことはないと言うこと。海外ではたばこは死をイメージさせ、当たり前に放送され禁煙が常識となってきているにも関わらず、日本では徐々に喫煙場所が少なくなっているものの未だにたばこが格好良いものというイメージのままである。
書籍名の通り、こうやって私達は誤解させれらていくのである。
私達は良くも悪くもメディアからの影響を受けざるを得ないが、それを鵜呑みにするのではなく、あくまである事実に対する1つの見方に過ぎず、他から見ればまったく違う世界が実際には存在していることを頭に刻んだ上で、世の中を見ていく必要があるということである。