笹まくら (新潮文庫)
この小説は、45歳の大学の事務職員の平凡な日常風景から始まります。どこから見ても、何の変哲もない中年男ですが、実は、かつて「徴兵忌避者」として、5年間日本中を逃げ回った過去を持つ人物だったのです。
小説は、徴兵忌避者として孤独で不安な逃亡の日々を送る青年の姿と、20年後の中年の日々とを交互に描いていきます。二つの時間のコントラストが鮮やかであればあるほど、過去の日々が鮮烈に浮かび上がるという手法です。
この手法は、うまくいっています。他にも、新聞記事の文体や、酔っぱらいのモノローグ(丸谷の独擅場!)など、文体の見本帳ともなっています。
ジョイスを読んだことのある人なら分かると思いますが、眠くなった人の独白は、平仮名が多くなっていき、句読点も少なくなっていきます。そのへんの文章効果をじっくり楽しんでください。
なお、この作品で最も見事なのは、最後の数頁です。倒叙法の記述により、哀切で叙情的な文章が、かつて例がないほど複雑な味わいを生む効果を出しています。
やはり、これは傑作です。
美味礼讃 (文春文庫)
そんなに遠くない昔には
フランス料理は、極北の日本で
驚くほど適当に、間違ったかたちで
存在していました。
そこに、料理などまるで門外漢の
一人の青年が、ふとしたきっかけで
フランス料理の世界に足を踏み入れます。
料理を知らないかわりに、青年には
有り余るほどの知識欲と
物をしりたいという素直なこころ
思わずまわりの人たちが助けてしまう
人間的魅力を備えていました。
私たちがいまや家庭でも正しいフランス料理や
ビストロの味を出せるのも
辻さんがいてくださったからなんだなと初めて
わかりました。
一人の青年の成長譚としても
フランス料理の誕生の姿としても
美味しいものの好きな方にも
辻調理学園についても
知ることができます。
海老沢泰久の流れるように読みやすい文体で
厚さもきにせず読破されることうけあいです。
本当に素敵な本です。ココロからおすすめします。
思考のレッスン (文春文庫)
敬愛するN先輩から『思考のレッスン』(丸谷才一著、文春文庫)を薦められた時は、正直言って、困惑してしまった。なぜならば、丸谷才一がジェイムズ・ジョイス大好き人間であり、丸谷訳の『ユリシーズ』を悪戦苦闘の末、読み終えたものの、どうしてもこの小説を好きになれなかったという苦い経験をしていたからである。
ところが、この『思考のレッスン』には、考えるためのヒントが詰まっていたのである。丸谷式考え方のこつを私なりに5つにまとめてみよう。●先ず大事なのは「問いかけ」である。つまり、「いかに、よい問いを立てるか」ということ。他人から与えられた問いではなく、自分自身が発した問いであるべきだ。●定説と違っても構わないと「度胸」を決めて考える。●考える際は「比較と分析」を行う。比較によって分析が可能になり、分析によって比較が可能となる。●「仮説」は大胆不敵に立てる。その際は自分の直感と想像力を信頼することだ。●仮説を検討するときは「大局観」を重視する。
あいさつは一仕事
本書は著者による『挨拶はむずかしい』、『挨拶はたいへんだ』に続くスピーチシリーズの3冊目。
もとより文壇の重鎮が披露するスピーチの極意を一般人が応用できるはずもなく、従来このシリーズは挨拶の姿をまとった文芸評論、随筆等として楽しんできた。今回作では特に弔辞・偲ぶ会での挨拶における故人の業績評価、とりわけ「大野晋氏葬儀での弔辞」と「井上ひさしさんお別れ会での挨拶」を興味深く読ませたもらった。
巻末収録の和田誠との対談で、著者はこれら3冊に収録していない「失敗作がいっぱいある」ことや、「準備したってなかなかうまくいくもんじゃないですよ。まして準備しなきゃだめですよ。」と語っている。一般人においてをや、であろう。
文章読本 (中公文庫)
料理本に例えると、料理を美味しく作る方法を説明するというより、
「材料の見極め方」や「料理の見栄え」など、
文章に接する上で必要なポイントを1つ1つ丁寧に説明してくれる貴重な本だ。
丸谷氏の眼で選び抜かれた名文を教科書に、
文章の中の「方程式」を見つけながら理論的に解説していくので、非常に分かりやすい。
英語や古典に精通し、
長年、文章と真摯に向き合ってきた著者だからこそ、
日本語というあいまいな言語をここまで科学的に分析できるのだろう。
また、谷崎潤一郎、大岡昇平を始め、
古事記、伊勢物語、日本国憲法など幅広い文章が引用されているので、
この一冊を読んだだけで、文章のあらゆる型を学べるのも特徴の1つだ。
旧字や旧仮名遣いも多く読みづらい部分もあるが、
文章を真剣に学びたい方は、手元に置くことをお勧めする。