哲学の徒である梅原猛氏は、法隆寺『資財帳』の記録を見てデルフォイの神託を受けたが如く「聖徳太子の怨霊鎮魂仮説」が脳裏に閃めいた。その仮説によると、今まで謎とされてきた多くの事実が合理的に説明できることに気がついて本書が執筆された。
ソフィストに立ち向かうソクラテスの如く、氏の筆は勇猛果敢である。結構、厚い本にもかかわらず読者を引付けて止まず一気に読ませる。特に圧巻は夢殿の救世観音。「怨霊史観」によるおどろおどろしい世界が現出する。本書の初出は1970年代初め。古代史ファンを大いに増やした貢献を評価して星4つとした。
怨霊説の現在は…?おすすめ度
★★★★☆
30年ほど前に発表された梅原氏のこの法隆寺論は日本史、建築、美術史等々のジャンルを総動員して法隆寺の全体像に迫る試みであった。その結論は聖徳太子の怨霊が法隆寺に封じ込められているという、驚天動地のものであった。
同時にかれはみずからを哲学者と位置づけ、反論するなら揚げ足取りではなく、全体像をもって反論せよ、と表明していた。その言やよし、である。
多くの読者はかれの熱気に圧倒され、とくに当時の若者層は結論をそのまま信じこんでしまったようだ。学者間で評判は芳しくなかったが、正面切っての反論はなぜか回避されてきた(触らぬカミにタタリなしと、著者のパワーを恐れたか?)。かれの影響力は各界におよび、その結果、文化勲章という快(怪?)挙にまで至る。学者のふがいなさは今に始まったものではないが、この間、怨霊説は浸透し、いまなお信じている人も多い。
全体像を求めるかれの姿勢そのものは今も評価されようが久しぶりに再読し、思い込みに基く推論、それがあれよあれよという間に次々に断定に変わってゆく強引さが目についた。もちろん読者がその熱さをよしとし、酔うのは自由だ。しかし面白ければそれでいいというのでは思考停止、知の衰弱であり、著者も望まないはずだ。結論に関していえば、建築用材の伐採年など近年、明らかになったデータなどに照らしても、重大な疑問点があるのである。というか、そもそも論の出発点を疑う必要があり、再検討が求められる。
最近、梅原説に触発され、かつ氏とは別の角度から、全く新しい法隆寺の全体像が建築家によって打ち出された(武澤秀一『法隆寺の謎を解く』ちくま新書)。梅原説は“引き金”となることにより、この有力な新説の誕生に貢献している。十分に触媒の役割を果したのである。哲学者・梅原氏としても望んだところであるはずだ。併読されるようお勧めしたい。
怨霊史観から見た聖徳太子おすすめ度
★★★★★
作者は哲学者として名を成していながら、歴史の謎に次々と挑戦する変わり種。「怨霊史観」の提唱者として知られる。本作では聖徳太子と法隆寺に関して論じている。タイトルがこうなっているので、ネタばらしにはならないと思うので書いてしまうが、骨子は聖徳太子がキリスト教信者で法隆寺には十字架が隠されているという話である。そして、法隆寺は聖徳太子の怨霊を鎮魂するために建立されたのだと。まさに、"怨霊史観"の面目躍如である。
考えてみれば、キリスト教は古くから景教として中国に伝わっていたのだから、太子がキリスト教に通じていても不思議ではない。そして私が小さい頃から思っていた以下のような疑問に見事に答えてくれるのである。
日欧の聖者である聖徳太子とイエス・キリスト(の伝聞)は何て似ているのだろう。旅先で人々の病気を治したり、水を湧き出させたりする等の数々の奇跡を起こし、2人共馬小屋の前(あるいは中)で生まれるなんて(聖徳太子の生前の名は厩戸王子)とても偶然とは思えない。これも太子の関係者が、太子を偲び、イエス・キリストのイメージを太子のイメージに重ねて伝承したと考えれば辻褄が合う。そんな空想を膨らませてくれる楽しい啓蒙の書。
上出来
おすすめ度 ★★★★★
わたくしめもついに買いましたよ
。これを知らずして新しい時代のエンターテイメントは語れません。
感動やドキドキ感を手元に置いて、私同様に何時でも手に取って思い返して頂きたいと願います。